色合いの変更
色合いの変更

美瑛町役場職員として景観条例の制定にも携わった大谷さん。写真家の故 前田真三氏と出会い、美瑛がどのように観光のまちになっていったのか。そして、その考えをまちづくりに活かしてきたこと、そしてこれからのお話を伺いました。

「ここはどこの景色ですか?」前田真三氏との出会い


“大学卒業後、美瑛町役場に就職しました。最初は農業、そして教育、前田真三先生と出会った頃は企画観光課にて仕事をしていました。40歳になる手前でしたか、もう閉店してしまったけど「ポエム」という喫茶店で、そこの店主に紹介されたのが最初でした。いくつか写真を見せていただき、それが美瑛だと私はわかりませんでした。もちろん美瑛に住んでいましたし、農業課の時にはほぼ全ての農家さんの家に顔を出していましたから、美瑛の風景は知っていたつもりでした。でも、前田先生に「あんたバカだなぁ。これは美瑛の風景ですよ。」と言われた時は、とてもショックでしたね。 “

前田真三氏の撮影スタイル

“前田真三先生は、道内を撮影旅行で来ていた時にたまたま立ち寄った旭川の喫茶店で、美瑛の美馬牛で撮影された写真を見たそうです。そこから美瑛に向かい、まるでヨーロッパのような景色に惚れ込んだと聞きました。今でこそ畑に入ってしまう観光客が問題になっていますが、前田先生はその土地の農家に許可をもらいながら撮影をしていました。美瑛町内のほとんど全ての場所をまわり、ご自分のイメージに合う場所を探しては撮影。当時はフィルムカメラですので、東京で現像するまで自分が思い描いたものが撮れているか。とても気にされていました。現在は公園になっている新栄の丘、三愛の丘展望公園はもともと前田先生の撮影スポットだったのですよ。 “

幻のキャッチコピー「何もないまち びえい」

“その頃美瑛の観光といえば、白金温泉だけです。どうすれば観光客が増えるのか必死で考えていました。何を売り物にしよう。何を新しく作れば人がきてくれるのか。そんなことばかりを考えていたなかで、案として出ていたのが「何もないまち びえい」というキャッチコピーでした。でも1985年から1年2ヶ月かけて前田先生が撮影したソニーのハイビジョン映像を見たとき、当時の水上町長が「もうこれは、丘のまちびえいになっていくね。」と話をしたことを覚えています。 “

十勝岳の噴火が、全てのはじまりだった。


“1987年に拓真館はオープンしました。 翌年に十勝岳が噴火して、たくさんの報道機関が美瑛に取材にきたのです。そこで拓真館も取り上げてもらえて、それ以降たくさんの観光客が来るようになりました。もう停まれないほどのバスが並び、それはもう大変な騒ぎです。十勝岳が噴火しなかったら、今の観光のまち美瑛はなかったかもしれません。 “

前田真三写真ギャラリー拓真館
前田真三氏自らが開設した個人の写真ギャラリー。廃校となっていた旧千代田小学校の跡地を利用し1987年7月にオープンしました。館内には、前田真三氏がライフワークとして取り組んできた「丘」の連作を主として常設しています。
住所:北海道上川郡美瑛町字拓進

偉大な人たちが作り上げてきた、美瑛。景色。

“前田先生は「景色をよくしていこう。変なことをせず、今の美瑛をそのまま残していこう」と言っていました。私たち住民が気づかなかった「何もないまち びえい」が一番美瑛らしいということだと私は捉えています。前田先生以外にも、たくさんの方の協力で今日の美瑛はあります。この何もなさを好きになってもらってきたみなさんから学び、これからもこのままの美瑛を守り続けていければ良いのではないでしょうか。 “

大谷さんのmy BIEI